いろいろ3

2019050126題・題名・タイトル・見出し・・・

たしか、15文字までだったと思う。30byteまで。ダイヤルアップで「パソコン通信」のニフティーサーブでの「会議室」への書き込みのときの、題名の文字数の縛り。
ツイッターやラインなんてのは「題名」は要求されない。いきなり「本文」を書き始める。フェイスブックもそうだね。・・・って、いうことは、最近主流の「SNS」って称されるものたちは、ことごとく「題名」を要求されない。
インターネット以前から存在する形式である「メール」においては必ず題名を要求される。しかし、返信には「RE:なになに」って形式がふつうにあるから、実質的に題名を要求されていないとも言える。また、その気になれば「無題」でもメールは送れる。
若い連中は、いや、年配も含めてほとんどの人々は、仲間内はもとより、かなり広い範囲に向けての発言・発信(写真・動画などを含む)を「無題」で行っている。
本・雑誌・新聞・公文書・仕様書・映画・漫画・聖書・・・・。これらすべては「題名」を持っている。たいていは、その一部分である文章にも題名がある。ひとつの文章の中身にも、部分部分に構造的に題名(章とか中見出しとか名称はいろいろ。きちっとした文章は章だて形式である)が施されている場合も多い。

題名は絶対に省略しない。必ずある。

しかし、人々は題名を書かない。「まとも」なものには必ず題名があるのに。
なぜか。
面倒だから。
言いたいことをいきなりだらだら書くのは、あるいは、ひょいと出す画像なり何なりの投稿は敷居が低いが、「題名」を提示するのは本文をたらたら書くのなんかに比べて、かなりのエネルギーなり気合いなり頭の回転なりを要するってことだからだ。たとえ、だれもがそれしかないと思う何のひねりもない、単に中身を代表する単語ひとつであったとしても、それを表題にするという意志を表明するには、それ相応の気合いが必要だ。この事実が題名を提示することの敷居を高くする。だから、題名無しだと、人々はツルツルいくらでも文字を連ねるし、写真でも動画でも何でも投稿する。SNS的なもの以外の、既存のあれこれは必ず題名がある。中身の区分ごとに題名がある場合も多い。特に、新聞は見出しに命を懸ける。
文章などの表題ばかりではなく、何らかの「もの」の名前も、名付ける方々は命を懸ける。商品名は、その商品の中身以上に重要だったりする場合も多い。目立たねばならないが目立つだけで良いというものでもなく、品格であるとか適切な表現であるとかなじみ具合であるとか、あげればきりがないいろいろな課題がある。だから、「名付け」は命を懸ける対象となるわけだ。
そういうわけで、題名は大変な代物(しろもの)だ。だから、回避して、気軽にラインする。
いいのか? それでいいのか?
題名無しってことは、中身に対しての提示者の正式できっちりした表明がないってことを意味する。どうでもいい文章だったり、写真だったり、何であったりってこと。たらたら流れて、とろとろ向こうに行ったような気がして、気配がなくなって、記憶の彼方に消え、、、消えました。
人は、あるものに名前を付けて、その上で、そのものを認識する。名前のないものは、存在があやふやで、名前無しのままだと、その存在は消えてゆく。ひとが何かを認識するためには、必ず「名前」が必要だ。よって、文章には題名が必要なんだ。人がその文章を認識するためには。
ニフティーサーブの会議室では15文字以内の題名であることが要求されたと書いた。FMACBGとか、エフチャイルドだったかなあ、いい気になって結構投稿したが「15文字以内の題名」には気合いを入れて考えたものだ。題名命ね。
言いたいことがあって投稿するわけだが、それをウダウダと「牛の涎」形式で書くのは、まあ、簡単だ。でも、それに変哲もない題名を付したら、言いたかった私の「熱い気持ち」は変哲のない取るに足らないものとなる。だから、題名には気持ちを込めた。でも、ただただ気を引くだけのものにもしなかった。そういうフザケタ態度だと、早晩、読者はいなくなる。言いたい中身を簡潔に、てらいなく、しかし、カチッとひっかかる気合いとともにある題名を心がけた。
ここで、15文字以内というのが、かなり強力に私に作用した。15文字は、たいていの場合は問題なく充分な文字数だ。しかし、ちょっと複雑なことであるなら、もう少しなければ言い尽くせない。いや、言い尽くせなくとも良いが言い切れない。でも、それでも、絶対に15文字以内でやれという仕様だ。
これは良き修練でありましたね。
いやね、読む方からすれば、15文字以上のタイトルなんて「何なんだよう。ウダウダのたくってんじゃねーよー」って感覚だ。たとえ、中身がとてつもなく画期的で重要で革命的であったとしてもね。だから、題名は絶対に15文字以内でなければならない。その上で、サブタイトルとか、リード文とかの、その他のあれこれで補完して、最初に目にする題名が「引き」をきっちり取るってこと。
そういうわけで、「中身」と同程度の価値を「題名」に置かねばなりません。そして、題名には置くべく価値と同程度の精力をそそがなければなりません(中身と同程度以上だと羊頭狗肉になるから、自重しなければなりません)。一行で綴る「牛の涎」ってもんだが、それを文字通りに実践するとすれば、「題名」のみで本文無しで一行だ。それも、ニフティーサーブ流で行けば、15文字以内だ。15文字以下の文字数で「言いたいことのすべて」かあ??
理想的とも言える。本文は題名に言い尽くされる。かっこいいなあ、そうならば。
というわけで、わたしは「題名」を言いたいことが書いてある本文と同等の重きを置き、価値ある地位を認めるものであります。

2019052124助走を始める

2019051811に題名だけ書いてそのままになってしまった。
休んでいたけど、とりあえず、書き始める。


2019052125三桁表記がうざったい

お役所の表やグラフなんかに、数字が書いてあって、欄外に(千)とか(百万)とかあったりする。ちなみに、次は(十億)である。これらは、西欧の数の桁の表記に習った結果のものである。
thousand=1,000 → 千
million=1,000,000 → 百万
billion=1,000,000,000 → 十億
一方、日本語においては、数は「一十百千」の四桁が基本的なひとつの組で、それを基準に桁が名付けられている。

一:1
十:10
百:100
千:1000

一万:10000
十万:100000
百万:1000000
千万:10000000

一億:100000000
十億:1000000000
百億:10000000000
千億:100000000000

一兆
十兆
百兆
千兆
(面倒くさいので、アラビア数字での表記を省略する。ちゃんと書いたとしても、数えるのが面倒なことは自明だ。)



四桁でひと括りというのは、昔、中国に教えてもらった数の十進法における桁の名付け方だ。

小学校四年生だったかな、「大きい数字」っていう(雰囲気の名前の)単元の算数の授業の時に、億とか兆とかの桁まで習う。その時、娘に先生は「四桁ごとに線を鉛筆で(薄く)引きましょう。そうすれば、わかりやすいよ」って教えてくれた。日本語で数を言う時、中国に教えてもらったように、四桁区切りで数の桁の名前を言えるように区切りを入れる。これ、日本語では当然のこと。

一方、西洋では、上記のごとく、三桁ごとに数の桁の名前が変わる。だから、アラビア数字に三桁ごとに何らかの区切りを入れる。アメリカや日本式だと「,」。科学方面の国際的な習慣?では半角の空白を三桁ごとに入れるって言うのが推奨されているらしい。
1 000 000 000 000みたいな感じね。
そういうわけで、アラビア数字(算用数字)での位取り十進記数法での「区切り」をどこで入れるかは、言語に依存する。西欧では三桁ごと、日本語では四桁ごと。
そういうわけなのに、日本において日本語で書いている文書において、上記のように、役所とかそれに準じる奴らで三桁で区切るふざけた奴らが存在する。
36(百万)とあったら、36000000=36,000,000=3千6百万のことだ。
「3600 0000」
と区切ったら、「三千六百万」とすぐわかる。四桁が一組の日本でやっている中国式数表記だ。
(千)(百万)(十億)ってやっているあんたたち、四桁区切りの日本語でやりなさい。
ちなみに、表計算ソフトなどの数字を取り扱うアプリケーションソフトで、四桁区切り表記を試みたことがあるのですが、私の力量では対応させられなかったです。アメリカ由来のアプリケーションソフトは三桁区切りです。四桁区切り対応の日本のアプリケーションソフトがあれば良いなと思うものです。

日本語では、区切るなら四桁です。

ちなみに、一兆は西欧でも日本でも「区切り」に相当します。「カンマ」以下の桁数が3と4の最小公倍数である12ってことでね。

20190706熊がいる

先月から、北広島市経由で野幌森林公園(通称は原始林)に二歳か三歳の若い熊がいる。体高1m程度の若い熊だ。原始林に熊は七十数年ぶりのことだと言う。母親から独立したての雄の熊らしい(酪農学園大学の小動物監視カメラに写っていたと報道があった)。どこから進出してきたのかわからないが、しかし、森林公園は「山の森」とは繋がっていない。市街地に近い、先人の努力で何とか残されている平野の「原始林」だ。少なくとも、交通量の多い道路できっちり仕切られている。
熊は北広島市の方から入ってきたようだ。なぜわかっているかと言うと、目撃されているからだ。車で道路を走っていた人からの目撃情報が何件か上がっている。熊がいたと。
その若い熊は、糞の発見状況や目撃情報から、森林公園の東側を北上し、うろうろし、森林公園の北端(情報大学や酪農学園大学近辺)をちょろっと出たりしつつ西側に移動し、百年記念塔の近くまで来たあとちょっと目撃情報がなくなり、ややしばらくして野幌小学校近辺の森林公園東側で糞発見や目撃情報があるのが現状だ。ハスカップ畑でハスカップを食べているらしい。糞からハスカップが出たそうだ。ハスカップ畑のカメラに写ってもいるらしい。
熊方面の専門家が言うには、いま原始林にいるのは若い雄の熊一頭のみ。そいつは人影を見かけたら逃げるので、熊危険度(正式名称を失念)は五段階、、、だったかな?で「0」である。つまり、危険性が小さく、注視しつつ何もしないというのが至当であると言う。銃で駆除するとかは必要ないってことらしい。
今のところ、若い雄の熊は、原始林の中のハスカップなどを食べながら生活している。人を見ると逃げる。でもね、いつ美味いものが入っているごみ箱をあさる奴になるのか。いつ、人間が反抗しない御しやすい簡単な奴らであるとわかっちゃうのか。そして、体高が2mになるのはいつなのか。
熊専門家は、森林公園は、熊にとって「狭すぎる」空間であるという。「森」に帰るんじゃないかと予想する。でも、何時なのかはわからないとも言う。明日なのか来年なのかもっと先なのか。妻は、雌がいないから早晩いなくなると言っている。専門家の発言より説得力がある発言ではあるが、根拠は無い。だいたいやねえ、奴には「帰る」という選択肢は存在しているのかとも思う。
そもそも、「熊密度」が高い「森」から進出してきた若い熊だ。
そもそも、「森林公園」が「森」の向こう側に存在していることを知って進出してきたわけではないだろう。「熊密度」が高い「森」からはじき出された若い熊だってことでしかない。
ということは、奴は、若くて世間を知らない向こう見ずな奴だ。交通量の多い道路を何本も横断している。
ということは、奴は、国道12号線の大麻団地へのアンダーパスを通って大麻団地に入ってくるってこともありそう。何てったって向こう見ずな若い熊なんだから。
熊専門家は「熊がいるってことを思い、共存することを考える」みたいなことを言っているけど、住人としては、森と隣接していないにもかかわらず、熊と共存はしたくない。なぜならば、熊がちょいと私をなぜただけで、わたしは死を覚悟しなければならない痛手を被る。そんな奴とは共存したくない。つまり、道を普通に歩けない環境で生活したくないってこと。熊との共存が「普通」の熊専門家とは友達でいたくないです。
そういうわけで、原始林の熊は銃殺して欲しいのですが、銃の発射許可が下りてもいるようですが、しかし、原始林での発砲は難しいらしい。人が普通に入ってくる状況で、かつ、原始林は狭いので発砲したら弾丸が原始林の外まで飛んでゆき、問題が大きいってこと。
熊専門家は、さらに、たとえば箱ワナで捕らえたとして、「熊密度」が高い北海道の森のどこにはなせば良いのかわからないと言っている。殺したらダメなんかいね。「自然保護」に反するってかあ? ・・・・熊が相手なら、やるかやられるか何だけどねえ。熊がいる状況で、駅まで歩いて移動なんてあり得ないでしょ。

あす朝、玄関ドアを開けたら熊がいても「想定外」ではない。


追記:私有地のハスカップ畑のハスカップを食べる「問題熊」と認定したらしい。ハスカップ畑あたりに箱ワナを仕掛けたらしい。入ったら射殺だとのこと。
箱ワナに捕獲されたとの報道はいまだ無い。


追記2:北海道新聞2019.8.2金曜日朝刊16面 江別
熊目撃相次ぐ
31、1日北広島市内で4件
 【北広島】7月31日から8月1日にかけて、北広島市内でクマの目撃情報が相次いだ。専門家は、断定はできないとしながらも、道立野幌森林公園(江別市など)で6~7月に出没していた個体が、南へ向かった可能性もあると見ている。
 市によると、31日午前5時50分ごろに北広島市西の里で、歩いていた人がクマを見つけて市に通報したのを皮切りに、午後3時50分ごろには中の沢でドライバーが道路を北から南へ横切るクマを目撃。午後7時15分ごろには輪厚で、翌1日正午ごろには恵庭市との境界近くの国道36号を南へ横切るクマがドライバーに目撃された。体長は目撃した人によって幅があるが1~2メートルという。
 4件の目撃が同一個体かどうかは分からない。ヒグマの生態に詳しい金川弘司(ひろし)北大名誉教授=北広島市=は「断定はできないが、恵庭方面から野幌森林公園にやって来たクマが、食料を確保できず元の場所へ戻るために北広島市内を通過した可能性がある」との見方を示した。
(阿部里子)


妻は、女の子がいないから早晩出ていくと言っていたが、、、

2019080924佐川元国税庁長官、再び不起訴

「「不起訴不当」議決を受けた佐川宣寿元国税庁長官ついて、大阪地検特捜部は再び不起訴とした」とのことなので、「刑事訴追を受ける恐れがある」状態は完全に脱したことが確定した。(毎日新聞などより)
もう一度国会で証人喚問して同じ質問をしたら「刑事訴追を受ける恐れがある」からの証言拒否はできなくなる。
さて、今度はなんて言って証言拒否するんだろう。「Aさん(伏字は国会で可能か?)の身体に捜査が及ぶ恐れがあるので、証言拒否します」だったりして。

2019091924プリンタは悩ましい


23の息子へのメールより。プリンタが欲しいが、どうしたら良いかとの電話のあとに出した追伸メールをちょっと改変。
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Macを買う時にも示唆したかと思うが、用途をどのように考えるか、使用頻度はどうか、それぞれの使用(方法とか目的とかに応じて)に対してのコストパフォーマンスはどうなのかとか、考えるべきことは多様だ。
で、プリンタ・Mac・車・通信・カメラなど、「成熟期」に達しているものどもに対してと、「成長期」のものに対しては対応が違ってくる。
かつて、わたしが最初にMacを買ったのは、Mac Plusってやつで、標準2MBのメモリで、700KBだったかなあ、のフロッピードライブが「1機」だけ付いていた奴だ。「2機」ではないことは実に大きな問題であったし、HDが付属していなかったことに強く留意して欲しい。CPUはモトローラ68000が一個だけ付いていた。ビデオ専用のCPUは付いていなかったということ。そういうものであったコンピュータで、今のコンピュータとしての利便性の、そうだなあ、5-60%は満足させてもらっていた。コンピュータとしてのカタログ総合能力は、今のに比べると、1%?程度のおもちゃとも言えるが、ちゃんとコンピュータであった。まあ、お前さんみたいにイラストレータとフォトショップものを扱うというわけにはいかないが、テキスト方面だと、今のほとんどの人たちにとって、それほど遅れたコンピュータとは言えないだろう。そうさなあ、FEP(仮名漢字変換機能を提供するシステムのアドオン的なもの)のスピードが遅すぎると文句を言う意外に、あんまり使い勝手はかわらんのじゃないだろうか。
まして「成熟期」のプリンタである。代替わりして良くなるのはプリンタ本来の機能ではない。言い切っちゃったけど、それを覆すだけのものをプリンタ屋さんは持っていないと思うよ。となると、新しい機能が自分の仕事に本質的にかかわってくるような何かでない限り、無視してよろしい(たぶん、そんなものは無い)。
それで、次に、何を考えるかというと、自分がプリンタに求める機能を列挙しましょう。そして、その項目を、激安プリンタならどの項目が満たされ、どの項目がダメなのかをチェックする。考える製品の金額をあげてゆき、それぞれのプリンタについても同様にする。その上で、安い方から順に、対応可能の増えた項目についてのプリンタの金額の差額と増えた分の項目についての自分の仕事に関してのコストパフォーマンスを考える。妥当だと思ったら、高いのにすれば良い。
ここで重要なのは、「いま現在の自分の必要性」である。「近い将来必要になるかもしれない」というのは考えてはいけない。必要が確定してから考えて充分に間に合う。
具体的な考え方を例を出して試みる。
A3のコピー。この項目は、激安プリンタがA4までに限ることを考えると、激安プリンタではまったく用をなさないことは確定だ。A3コピー機の最安のとA4プリンタの差額とA3コピーでなければならない自分の仕事を考える。その差額はペイするかと。また、その差額の中には、部屋の中に占める体積が増えて部屋が狭くなる分も参入しなければならない。また、最安A3だとインクジェットだと思うが、それだと、コンビニのトナーの奴には品質でかなわないが、それも考えに入れなければならない。
などなど、自分が必要と思う項目において、こういうふうにすべてやるのだ。
で、たいていの結論としては、成熟期のものだと、型落ちの最安品がもっともコスパが良い。それができない項目については別の方法で何とかするという方向で考える。最安プリンタで享受できる利便性は大きなもので、プリンタを持つ意味は大きい。しかし、最安プリンタができないプリンタの業務を実現するためのコストはかなり高い。自分の仕事がそれに見合うものであれば、より高い製品を買うべきだが、そこはきちんと見極めるべきだ。
コンピュータの周辺機器は何でもそうだとも言えるが、プリンタはプリンタに特化したコンピュータである。だから、コンピュータ本体に接するのと同じ態度で接する必然がある。つまり、OSの使い勝手であるとか、設計思想であるとか、そういうの。OSってのはプリンタドライバソフトになるけどね。
コンピュータにおいてのアプリケーションソフトは、論理さえ整っていれば、文字の羅列のプログラムで何でもできる。つまり、何を作るか、それをどのように実現するかだけが問題で、他の物理的な制約は、たとえば、金属の強度の問題だとか、プラスチックの経年劣化の問題みたいなものは、まあ、無い。プリンタもかなり似ている。もちろん、インクは物質なので物理的化学的な制約下にある。しかし、どのような機能をどのような構成で実現するかは、物質の性状とか価格の問題もさることながら、プログラムみたいに「どうしたいのか」の方も大きい。そして、物を組んだ上でどう動かすかは、どのような考え方で動かすことにするのかという問題が大きい。外から見ただけでは、また、カタログを見ただけではなかなか判別できないプリンタの使い勝手は、コンピュータ的な、つまり、どのようなものをどのような考えで作ったかが問われる。たいていはレビューを見ただけではわからない。自分の必要に応じて使ってみて始めてわかる。これが悩ましい。


そういうわけで、激安プリンタなら、思惑とは違っていてもそれほど大きな授業料とはならない。そして、成熟期に入っているプリンタは、激安のものでも充分に有用である。


P.S. どうです? (外出先で使うためと相談されてわたしが勧めた)最安Macで「ホントにこれ使えないんだから! 高いのにすれば良かった」と感じたことはありましたか? あったとして、それは、差額に見合う問題でしたか?
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以上、お金のない者が実質的な選択をする上での考え方でした。趣味の選択のための考え方とは根本的に異なります。

2019091922東京電力福島第1原子力発電所事故裁判

今日(20190919)の13時15分過ぎに東京地方裁判所の判決が出た。無罪ね。当時の責任者達が無罪だったのは(1)大津波を具体的に予見できたのか (2)事故を防ぐことは可能だったのか について、(1)できなかった(2)可能でなかったってのが裁判所の判断なんでしょう。その判断の妥当性については異論がたくさんあるようですが、じゃあ、東電以外の組織で(1)(2)に関して結果的に対処していなければならなかったところで対処していたところはどれだけあったのかということが被告側から言われていたようで、想像するに、たぶん、ほとんどの組織は対処していなかったような気がする。まあ、世間的に、巨大津波に関しての関心は、あの大地震以前には専門家以外ではそっち方面に強く感心のある好事家以外にいなかったことは、たぶん、確かだ。だからと言って、裁判結果同様に責任を免れることができたのかと言うことに関しては、裁判結果と異なる意見を持つ人多いかと思う。私もそのひとりではある。しかし、大津波のことを真剣に考慮しなければならないものと認識しなければならなかったと言われて、「そんなこと、普通は思わないでしょ」っていう気分もよくわかる。だって、世間のほぼ全員はそう思っていなかったんだから。

とはいうものの、「無罪」は当然であるとはならないと思う。

私はなぜ「津波の予見と予見したとして対処可能だったか」が争点なのかがわからない。これを争点とすることは、問題の矮小化にほかならないと思う。
問題の本質は「事故が起きたら人類にとって取り返しのつかない事態になりうる」というものを扱っていながら「想定外」を許容したこと。原子炉を扱う者にはどんな事態にも過酷事故を起こしてはならない義務があったはずだ。一般的な事業において免責される何らかの基準と言うものは、原子力発電所を運営するにあたって存在しない。なぜならば、原子力発電所の過酷事故は人類にとって取り返しのつかない事態が想定されるからだ。これは、原子力を扱う人たちは「全員」知っていることである。だから、「すべての事態」に対応できるように多重に防護機構を設け、あらゆる事態に対応可能であるようにし、そのことを安全委員会に見てもらって、了承を得ているんだよね。
そうは言っても、すべてのものごとは、完璧に完全なものとすることができないと言うのが一般論だ。どれだけ英知を集めても、どれだけ資金を投入しても、人間のやることに完璧は無い。それなのに、「事故が起きたら人類にとって取り返しのつかない事態になりうる」原子力発電所を扱うんだ。その時点で論理的に 破綻しているわけだが、そこは、強引に言い切る。「安全です。絶対に安全です」ってね。何の付帯条項も付けずに「絶対安全」って言い切る。「安全神話」と呼ばれる事象ですけど、言っている方々は「神話」の部分を認めてこなかったし、「絶対安全」で押し切ってきたわけだ。それが、先の事故により、破綻したわけだが、破綻していないことにしようって方々が為政者として君臨しているのを許しているのは誰なんだろう。少なくとも、私ではない。

高校の時、物理の時間に原子核反応について学んだ。半減期というものも学んだように思う。高校の物理の教科書に載っていたことを踏まえるだけで、原子炉を「絶対」安全に管理することは、不可能そうに思えたし、放射性物質を扱う時に、物と量によっては環境に放出することは人類の滅亡に直結することがわかったし、その半減期は物によっては「とりあえず」10万年以上のもので、これって、現生人類の今までの生存期間と比べるのが相当であるほどの期間だし、半減期は半分になる期間であり、問題のない量になるまでは何回の半減期を経なければならないかは量によるわけだということも理解した。歴史の授業で習ったところによると、人類初の文字を得た文明のシュメールの時からまだ一万年経っていないくらいだという。このことを考えると、放射性物質を扱うって、神をも怖れない不遜なあり方だということが確定的に言える。少なくとも、現責任者は現放射性物質の行く末を見届けることはできない。

原子力を扱う時、それは「絶対安全」でなければならないということを原子力の性質から言って人類の共通認識としなければならない。「想定外」の存在は許容されない。原子力を扱うなら、実施した安全策が「絶対安全」であることを証明しなければならない。「絶対安全」は理論的に無理だけど。

P.S. フクイチが津波で電源喪失して過酷事故を起こしたということが喧伝されているが、津波以前に地震動によってすでに壊れていたという報告も聞く。津波が来なくてもかなりの過酷事故であったかもしれないという話のことだ。少なくとも、地震波でかなりの配管が壊れて管の中身が降ってきたということである。震度6程度で壊れるヤワな設計であることを隠すための津波論議だという指摘もあるようだ。
そういえば、新潟県方面の原子力発電所がぐちゃぐちゃになったのは津波のせいではなく地震波のせいだった。地盤もずれたんだったっけ。

20191001 NHK受信料実質2%の値下げ?

もしかしたら、「実質」って言葉で逃げたつもりかもしれないが、どう考えても、やっぱり、変。

2019年9月30日までは消費税が8%であった。何に対して8%かというと、受信料本体と申しましょうか、税抜き料金に対しての8%である。
この、税抜き価格をAとします。何度も長い文字列を書きたくないからね。
で、税込み価格はA×1.08である。ここまでは誰も異存がないと思う。

それで、2019年10月1日から消費税が10%と増税された。本来ならば、税込み価格はA×1.10となるはずであったが、10%の税率を適用しても以前の税込み価格のA×1.08に増税後の税込み価格を据え置くという。つまり、本体価格の値下げを断行するというわけだ。
では、税込み価格が8%の税率の価格と変わらないような税込み価格が10%の税率の本体価格(Bと置く)はいくらかといえば、

B×1.10=A×1.08

B=(1.08A)/1.10
=(1.08/1.10)A
=0.981818181...A

つまり、10%の税率の本体価格Bは、1-(1.08/1.10)だけ元々の本体価格Aに比べて安くなる。つまり、0.0181818...=1.81818...%安くなる。
これを「実質2%の値下げ」というには、ちょっと、誇大な表現じゃあないかなあ。サバ読んでいる。

1.81818...%=約2%として良いではないかとのご意見もあるかとは思いますが、税率8%とか10%とかと言っているのは、もう少し正確に計算することを要求している。2%と言っているその金額に対して9%強サバを読むって言うのは、ありでしょうかねえ。

また、消費税は「本体価格」に対してかかるものだから、本体価格が確定していなければならないかと思う。それが、最小単位が一円では確定できない本体価格を設定しなければならないかと思うが、どうするんでしょうね。本体価格を分数で表すことにすれば可能だとおもうけど、循環小数は認めてもらえるのかなあ。四捨五入したら税込み価格がその金額になる本体料金になるまで小数を続けて本体価格とするってことかな。小数第何位まで必要かはもともとの料金がいくらなのかによるなあ。税務署さんの対応は如何に。


201912101629 IR(Integrated Resort:統合型リゾート)

地域経済が活性化するとか、ギャンブル依存症が増えるとか、マネーロンダリングがヤバイとか、自然環境に影響を与えるとか、あれこれあれこれ論議がかまびすしいが、本質を誰も語らない。
巨額の投資をする外国の会社が予定されているが、そいつらは、投資した金額に見合う巨額の利益を得ようとしている。多少の税金を払ってもウハウハのもうけを見越して投資するわけだ。つまり、賭け事という破廉恥行為でどうぞ儲けてくださいと、

「腹をさらけて略奪をするがままにさせる」

ってのが本質なり。

2020031224日本の伝統だと

パニックになるとトイレットペーパーを買いあさる。石油危機で顕在化した伝統か。今回の新型コロナウイルス騒ぎのパニックでもこの伝統はあらわになった・・・・と、「日本の伝統」かと思っていたところ、アメリカでもトイレットペーパーの買いあさりが新型コロナウイルス騒ぎにおいて起こっているようで、わたしは混乱している。
トイレットペーパーがパニックになった時に人類にとってどうして 真っ先に想起されるのかということが、わからない。
(現在普及している水洗便所でのウォッシュレットが機能していれば、紙が無くてもそれほど大きな問題は起こらない。風が吹かないタイプであっても、濡れを避けるには少し時間を置くだけで良い。ちょっと濡れたとしても、少なくとも、臭いも汚れもケツには残らない)

2020031225新型インフルエンザ等対策特別措置法改定に反対する


「緊急事態宣言法」だろうよ。憲法違反だけど、最近は上位の法であるはずの憲法の存在が靄か霞の存在と化しているようであり、こっちの方が大手を振って大々的に施行されるんだろうな。

施行後すぐにどれだけのことが行われるかはわからないが、十年後には「治安維持法」化しているだろうことは歴史が語っている。状況的には(注1)、十年の猶予はないと思う。半年もしたら想定される効力が十分に発揮されていることでしょう。

注1:安倍の選挙中の街頭演説での警察による野次排除の公権力行使が問題ないってこととか。

2020090826「こういう状況では解散とか、そういうことではない」って言ってみた?


衆議院の解散権は内閣総理大臣にあるってことになっているが、それは、日本国憲法の「天皇の」国事行為に「衆議院を解散すること。(第七条三)」があって、かつ、第三条の「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う。」ということから内閣総理大臣は好きなときに衆議院を解散することができるって言う話だ。
ま、憲法学者たちがそれを容認しているみたいだが、普通に日本語を読めば、かなり無理のある解釈だ。天皇の国事行為に衆議院の解散を含めている理由は、天皇の名によって(権威によって)衆議院を解散するってことにすれば日本国としてかっこいいよねって程度の話で、「国事行為に責任を持つのは内閣だからあ」ってのをここに持ち出すのは、かなり無理筋だが、それが政治ってものなのかな。というのも、全部で十個ある国事行為を眺めてみたら、「天皇の名によって行うことによって権威づける」のが至当なことどもが並んでいるから、そのように私は思うのであります。ま、それにもかかわらず、衆議院の解散は内閣総理大臣が好きに出来るってことで押し切る奴を選んだ責任は国民にあるわけだが、そんな話は事前に聞いていなかったよね。
そういうわけで、菅君は総理大臣になったすぐに解散はしないというようなことを言っているわけだが、しかし、衆議院の解散時期については「うそを言っても良い」ってことになっているらしく、「きわめて政治性の高い事項(衆議院の解散)」はどういう場合でも内閣総理大臣の専管事項ということで今まで行われていて、これからも行われるだろうことなので、国会において菅君が内閣総理大臣になった瞬間に衆議院の解散があっても私は驚かない。むしろ、解散がなかった場合の方に驚きがある。
こんどの解散時期は、普通程度の能力を持つ総理大臣であれば、何がどうあっても、総選挙で一番票が取れると踏んだ時に解散する。馬鹿な国民どもが、長きに及んだ安倍政権が「持病の悪化」という「かわいそう」なことで総理大臣を降りなければならなかったことに慈悲の心を寄せている瞬間に総選挙をすることが最も票を取れると踏むのは、たぶん、正しい判断だ。ボロが出る前にことを進めるのは正しい判断だ。野党が準備できていない時に切り込むのは正しい判断だ。
そういうわけで、わたしは総選挙が即あると思っている。
馬鹿でない国民があなたならば、選挙に行って現与党とそのシンパ以外の候補者に投票することかなと思う。そして、選挙に不正がないかを監視しに開票作業の様子を見に行くってことなのかなと思う。
なお、「そうは言っても、ふがいないだらしない力のない野党しかないだろう。誰に投票せいっていうのだ」というあなた。日本の議会制民主主義においては、「数が力」です。現与党でない方々に力を与えるのは多くの投票以外のなにものでもない。一票を持っている日本国の「大人」のあなたが投票する行為で議会の勢力図は決まります。


追記:解散が行われる場合を規定した憲法条文がある。
「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。(日本国憲法第六十九条)」
「国事行為」以外で衆議院の解散のことが書いてあるのはここだけなのかな。衆議院議員の任期が四年であると第四十五条にあり、内閣の不信任とか信任のことが国会で論議されなければ、参議院同様に任期が来たら選挙するっていうことが憲法では想定されているように読める。そもそも国事行為っていうのは、わたしの見解では、というか、憲法の日本語を「普通」に読めば、天皇による権威づけの形式的な話なので、それだけを根拠に「こと(衆議院の解散)」を成すのは「ズル」以外のなにものでもない。
憲法の想定は、総理大臣を選んだ過半数の議員の中からも何人もの議員が「総理大臣が今やっていることは極めてダメで、やめさせなければならない」と考えに至る何らかの大きな行政的な行為や判断があった時には解散総選挙か、いや今の総理大臣がやめねばならないよねってことであり、内閣総理大臣が衆議院の解散時期を好きにして良いということは書いていないと思うよ。

「解散権が内閣総理大臣にある」という憲法解釈は無理筋であるということを「常識」に昇格させたいものである。「衆議院の解散を内閣総理大臣がしたときには無理筋の好き勝手でゴリ押しした」と皆が考えるようになって欲しいなあ。

20201002核のゴミ受け入れ市町村


e-Statとかという政府の統計のサイトがある。
それによりますと、北海道の市町村は数は185あるようだ。全国では特別区とかいろいろあるようだが、1724だ。
寿都町と神恵内村が核ゴミ最終処分場の文献調査に立候補するらしい。こんなものいらないって外野はうるさいが、外野であれこれ言っても状況は変わらなさそう。じゃあ、いっそのこと、北海道の185市町村全部が、日本全国の1724市町村全部が立候補したら外野じゃなくなる。とりあえず、交付金はもらえるのかな?
全部の文献調査に何億年かかるんか、実質的にまともで公平な文献調査なんてできなくなるよね。

P.S. 最終処分場適地不適地の地図(科学的特性マップ)で、適地部分がない市町村がどれくらいあるかは知らないので、その分はのけといて。でも、この「科学的」適地地図は、適地領域を最大限に見積もって作っているような気がするので、適地のない市町村って、案外少ないかもしれない。
国会議事堂近辺は、どんなもんなのかな? 海岸からも近いしね。地図を確認してみよう。
東京都の海沿いとか、練馬区や杉並区や世田谷区あたりバッチリ緑色じゃん。ついでに、神奈川県は横浜市をはじめ、かなりな部分が緑色の最適地とある。受益者負担の観点からは、東京都かその近辺に作るべきなのかな。
国会議事堂は緑ではないようだが、緑領域との距離はちょこっとだね。地図を作った方たちは、国の中枢機関の近くに最終処分場を作っても問題ないと、技術的な自信がおおいにあるってことですね。わたしは、たった300mの地下で10万年おとなしくしていてくれるっていう土地が日本にあるってのが信じられない。

20202100216東証の売買システム「アローヘッド」の復旧方法


一台?の機器が故障し、バックアップの機器に自動で出来るはずの振替ができないせいでのシステムダウンだったようだ。
で、本日朝からの取引は滞りなくできているようなので、復旧がなったわけだが、その復旧方法がなんとも言えない原始的なものだったらしい。

「壊れた機器を交換し、システムを立ち上げ直したら正常に動いた」

これって、技術の詳細を知らない素人の私が自分が使うパソコンやネット環境の不具合に対処する「とりあえず一番最初にやってみる(唯一)」の方法だ。今まで動いていたシステムだからか、たいていはリスタートで復旧してくれるが、トラブルの真の原因はわからないままだ。よって、同じことは繰り返し得るし、実際繰り返す。
専門家ならば、壊れた機器からバックアップの機器への切り替えがなぜ行かなかったのかを知らねばならないわけだが、今のところ、持ち帰って調べるようだね。想定できていなかった本質的なバグがどこかに潜んでいる可能性があり、富士通さんは大変だ。しかし、巨大システムの場合、全体を専門的に深く細かなところまで一人で理解している人はいなさそうなので、あぶり出しには時間がかかりそうだし、今回のは抽出できたとしても、同じような「想定外」が潜んでいることは容易に想像できる。
当然、想定外を全部排除するように練り上げた上でのシステムだから、もし、そのようなバグが見つかれば、根本的な設計のあり方から見直しをかけねばならない可能性がある。

多くの「人的」システムの場合、現場の人はそれぞれの部署が正常に動くように、それまでの先輩からの伝承や自分の経験に裏打ちされた技術とカンで、ぐっと踏ん張ってシステムを動かし続けるということをやっている。まあ、それゆえに、システムの欠陥が見えてこないという面もあるが、コンピュータシステムのように、あらかじめ完全にすべてを想定しているという前提でしか動かせないものに比べ、圧倒的にシステム安定性が担保される。
社会のデジタル化は日本は遅れ気味だという言説もあるが、しかし、かなりの部分の社会の基盤システムがデジタル技術だというのは紛れもない事実だ。システムの詳細に立ち入れない素人のわれわれ便益の享受者は、デジタルシステムの本質的な脆弱性(想定外が存在しないことを想定しなければ動かせないこと)を理解したうえで、主権者として社会を築いていかねばならないかと思う。

2020101224池袋暴走事件について、ちょっと


いやね、運転していた被告のこととか、亡くなったお二人のこととか、被告さんの妻たる方を含む多くのけがを負った方々のきつい話には触れない。内情を知るすべがないので、根拠ある発言はできない。


で、ちょっとだけ感想。
被告さんはアクセルを踏んでいた記憶はないと言っている。トヨタのプリウス(2008年バージョンのNHW20って型式らしい)が壊れて暴走した旨の話をしている。

一方、検察側は、EDR(イベント データ レコーダー:行われたことどもを記録する機械)にはアクセルを踏んでいた記録とブレーキを踏んでいなかった記録とかなりの速度(具体的な数値が記録されている、と思う)が出ていた記録があったと言っているらしい。暴走を見ていた人の証言として、ブレーキランプは暴走中ついていなかったとのことを誰かが言っていた。

これらのことは、たぶん、すべて「事実」だろう。被告の記憶に関してと、EDRの記録とブレーキランプ不点灯の証言はね。

何らかの想定外の事象により、「アクセルを踏まずブレーキを踏み続けていても、EDRの記録と車の挙動はアクセルを踏み続けていてブレーキを踏んでいなかったということ」がないでもない。EDRの記録などが、絶対の証拠ではない可能性を排除することはできない。というのは、プログラムコードに瑕疵があって、想定外の事象を生じさしめていた可能性は残る。これって、結構ありそうな気分がわたしにはあるんだ。なんてったって、プログラマーにとって想定外の事象が起きてのことなんだからね。東証が止まったのも、たぶん、「想定外」の事象ゆえ。

だが、被告側は、「なんか知らんけど、ブレーキ踏み続けていたのに「あたかも」アクセルを踏み続けていたみたいな挙動を車がしやがった」だけではだれもその発言を認めてはくれないであろう。きっと、有能な弁護士(たぶん、被告が高額で雇った凄腕の弁護士のはず)は、万全で強固な証拠を持っていると自負している検察側をやり込めるだけの根拠ある証拠を提示してくるはずです(そうでないはずがない)。

スゲー興味ある。何なんだ! それは何なんだ!!ってね。いまのところ、弁護側の証拠に関しての報道はまったくない(いやね、わたしは知らないってだけの話だが)。弁護側の証拠は何なんだろう。何を手の内に隠しているんだろう。あの、巨大企業を相手にして、反論を許さないだけの強力な証拠が期待できる。

そうならば、トヨタはぶっ飛ぶぜ。

何なのだろう。早く知りたい。


P.S. 期待外れの弁護側の証拠だったら、即有罪だろうなあ。引き延ばし作戦だったら、それは有効なんだろうか。有効だったら、検察の無能の証明かな。弁護側の「有能」ってよりもね。
2021030725デュークの享年チックの享年


チックコリアが2021年02月09日に死んだと報道があった。珍しい癌(何だそれは)にかかったことがわかって、ほどなくして死去したとの報道だ。享年79。少なくとも10年早い。せめてデュークエリントンのように長生きして後輩たちに、そしてわれわれジャズファンたちに薫陶を施してほしかったと思ったのだが、デュークエリントンは75歳で死んでいた。チックは癌に負けたとき、すでにデュークを越えた享年だった。
合掌。
20210718横綱白鵬の奇抜な作戦について


2021年7月17日の横綱白鵬のとった戦法について「横綱たるもの、奇襲するべきではない。奇襲は下手のやることだ」とか「横綱の品位を汚すものだ。大相撲が大事にしてきた伝統を台無しにするものだ」とか「張り手までしている。横綱は張り手をするもんではない」とかとかいろいろみなさんおっしゃっていますが、異論があります。
白鵬は体が不調で、何場所も休場を続けてきていて、ほんとにひさしぶりに本場所に出場という今場所結果を出さなかったら引退勧告がなされる状況であった。体の不調というのは怪我ということになっているようだが、怪我もあるでしょうが、長年横綱を張り続けて結果を出し続けてきた「無理」は、それなりの年齢になってきたということもあり、体にガタをきたしているってことだと思う。昔のようには動かない。場所に出てはきたが、体は万全とは言い難いかなり苦しい状況だ。
で、今場所だ。初日から勝ちっ放しの13連勝。先場所まで優勝を重ねて待っていた帰り大関が今場所を全勝で並ぶ。14日目は、これも絶対に落とせない。ついてきている大関は14連勝で圧力をかけてきている。全盛期の圧倒的な自信は、今は無い。ここまでは積み重ねてきた稽古による技術と、「横綱白鵬」という名前で圧倒してきたが、かつてのように絶対の自信はない。しかし、勝たねばなならない。で、思いついたのは仕切板から可能な限り下がって立会い、普通にぶつかる立会いを避け、相手が迷っているうちに主導権を取り、「横綱として上から稽古をつけてやる」の状況に持ち込み、勝つ。この作戦は完全に成功しましたね。相手に力を出さぜず、上位のものとして稽古をつけてやった感で勝ちました。完璧な作戦。ただし、一生に一回しか使えないかな。
今日は全勝できた大関にも勝って全勝優勝です。全盛期の強い横綱であっても、全勝優勝というのはかなり難しいものです。でも、「横綱白鵬」は今場所やり遂げました。
あとは、価値観の問題です。大相撲の不文律を破ったと主張するのは良いでしょう。たぶん、そういう価値観のもとに大相撲を捉えている人は多いと思います。でもね、白鵬はモンゴル人です。日本人ではありません。少年の時から大相撲に属していたとしても、彼はモンゴル人です。ご両親の価値観を受けて成長したはずです。モンゴルの方の深いところでの価値観が那辺にあるかはわかりませんが、もしかしたら、大相撲のしきたり、伝統を知りつつも、しかし、相撲界では「勝つ」ということが最も価値あることとされているのも事実です。勝つためにあらゆる努力をし、方策を練り、場所に望むわけです。勝てば上位の位を得、負ければ下位に転落し、給料もなくなり引退を迫られ露頭に迷う。そうであっても大相撲の伝統を優先するのか。それとも「勝ちに行く」のか。
白鵬は勝ちに行って勝ちました。完璧な作戦でした。ルールを破っていませんでした。彼は全勝優勝をしました。これ以上の結果はありません。そして、彼は横綱の権威を汚した、大相撲の伝統を汚したと非難され、ふた場所連続優勝が横綱昇進の基準とされているところ、準優勝にとどまった帰り大関が来場所の横綱昇進が確実視されている。この大関は最初に大関になった時に怪我や病気でとことん番付を落とし、しかし、体をなおして何場所も勝ち進んで大関に返り咲き、かつ、優勝を成し遂げてきてはいた。彼は大相撲の伝統を汚す行為をしていないということらしい。たしかに、ガッツもあるし相撲も強い。でも、今ではそれなりに歳をとってしまっている。白鵬同様にね。そして、モンゴル人です。
大相撲の伝統にたてつかない外国人はOKで、最高位を極めているモンゴル人で大相撲の伝統に対戦ルールを守りつつ別のことをしている白鵬はパッシングを浴びるってかあ?

大相撲の伝統とか横綱の権威とか言っている方々の存立基盤は「何?」

かなり身勝手な主張のように思う。白鵬は、ルールの中だけどかなり強引な手を使って勝ち上がってきた。当然、張り手もね。「勝つこと」がもっとも価値あることとされている大相撲において、彼は最善を尽くして横綱に上り詰めて優勝を誰よりも重ねた。今、体力が衰えつつある自分がなせる最善を模索し、それを実行し、全勝優勝した彼を「大相撲の伝統を汚す」と糾弾するのは一体何様?
「勝つこと」より「大相撲の伝統」が大事なら、それを明示して大相撲の憲法とするんだな。不文律を強要する大相撲を代表するものでもないほぼ匿名の君たちに、白鵬を糾弾する資格はない。
わたしは大相撲においての白鵬の相撲のあり方はあまり好きではない。大相撲においては別のあり方で強さを表現してほしいと思う。ならば、ルールに明示せねばダメかと思う。少なくとも、前提とするすべての状況を共有する人々(とりあえず、「日本人に限る」とかは必須)でやらねばなるまい。
白鵬の相撲はグリグリであんまり好きでないが、朝青龍の相撲はぶっ飛んでいて大好きだった。あれっ? 彼もモンゴル人?

20210802新型コロナウイルス感染症重症度について

素人感覚的分類は、専門家の分類より重い方にズレている。ということは、テレビや新聞で言っている重症度は素人的にみるとたいしたことはないように見えてしまう。
専門の正しい分類基準は厚生労働省が基準を示しているから、正確にはそれを見て欲しい(参照)。わたしは素人として、一般素人が考える重症度の基準について、専門家の分類とのズレを見てみます。
参照 https://www.mhlw.go.jp/content/000631552.pdf


素人 → 専門家
(素人の感想)


軽症 → 記述なし、かな。
(熱出た。仕事は無理。水分とって寝ているだけ。ちょっとしか食えない)

中等症 → 軽症
(高熱出た。飯なんて食えない。何とか便所には行く)

重症 → 中等症
(入院して酸素吸入している。ベッドからまったく出られない。すごく苦しそう)

瀕死 → 重症
(なんか、管がたくさん身体中に突き刺さっていて、意識がない。死を待つだけに見える)

021080926 2021TOKYO Olympicのこと

報道ではほとんど言及がないので、みんな知ってるもっとも問題なところを言っておく。

そもそも、真夏にやるのは間違いだ。1964年の東京オリンピックは10月10日(オリンピックを記念して10月10日を「体育の日」に制定したはず)が開会式だ。なぜならば、屋外の東京でスポーツをするのに最適な気候だからだ。たぶん、USAでも7月下旬から8月上旬は過酷な気候なんだろう。屋外でやるプロスポーツ(野球、アメリカンフットボールなど)はチャンピオン決定試合たちの開催時期は、真夏のその期間を避ける。その、避けた期間にオリンピックを組み込む。最悪の選択。USAのテレビ屋さんの皮算用に付き合うIOC。アスリートファーストの正反対なり。

ところで、オリンピック開催に立候補した東京はIOCとの契約書を公開しているのかなあ。大々的な報道はないような気がするが、どこかが報道しているなら私は間違いだが、契約書は「秘密」のような気がする。多額の税金を使うのだから、納税者に対して開示する義務があるかと思う。

2021082824 「フレイル」のわたし

1955年産66歳。まさかフレイルとは無縁と思っていたが、膝の著しい不調とコロナ禍ゆえの外出機会の激減による運動不足は半端なく、フレイル一直線。「いや、ちょっと、かなりヤバイかな」と感じたのは10日ほど前(もちろん、遅すぎる自覚なり)。でもね、膝が悪いので(人口膝関節置換手術レベルだと言われたけど、騙し騙しやっている。手術は嫌いだ。だって、体が違うものになってしまうんだも)、近所のかるーいウォーキングさえ超ハード。ごくごくヤワで、しかし、それなりに有効なエクササイズがないものか。そんな都合の良いものはないに決まっていると途方にくれていたところ、ピキッと思い出した。

「ダンベル体操」

鈴木正成先生がNHKなんかでやっていたらしいもので、確か、妻が仕入れて来た。ここに1995年7月15日発行の「別冊NHKおしゃれ工房 ミセスのボディー改革 ダンベル体操」がある。当時、水満たしダンベルで始めたような気がするが、「これじゃあ話にならない」と買いに走った。壮年男子なら最初は片手5kgあたりかららしいが、「最初はとにかく無理するな」という助言に従い、片手4kgの鉄アレイ(質量調節不可)を二個買った。近い将来に5kgにステップアップする予定でね。しかし、結構きつかった。でも、まあ、回数をはじめの10回から多めの15回に増やしていくことができた。「きちんとゆっくりやれていないなあ。一回往復で反動つけないでじっくり4秒かあ」4kgでそこそこできるようになって来たところで、たいてい、ちょっとやらない日が出て来たりして、そういう日があると、次の日にやっても少し衰えていてきつくなり、4kgじっくり4秒15回を余裕でコンプリートするまでには手順を踏まねばならず、もともとこういう地味な運動は好きでないし、ストイックに突き詰めるタイプでもないので、気がついたら間隔がとっても空いてしまって、つまり、ダンベル体操から離れた私となっているってことでした。でもね、年月がたつと、また、「体なまっているなあ」とダンベル体操を再開すること数度。似たようなことを繰り返していたが、ここ10年くらいはやっていないなあ。

というわけで、ダンベル体操だ。

で、何kgから始めるかなんだが、4kgは試すこともなく無理なのはわかっていたからパス。妻は片手最大5ポンドのダンベル(質量調節可)を自分用に買って3ポンドくらいでかつては使っていた。1ポンド=約0.45kg。5ポンド=約2.27kg。(計算が合わんのではなく、数字の端折り方が適当なだけだ。 1常用ポンド=0.453 592 37kgが定義だ)そのダンベルを、まあ、男の子だ。5ポンドで始めた。最初の日はひとつのパターンで10回上げ下げ。かなり効いた。これほどまで衰えていたのかと実感させられた。次の日も同じ回数。あれっ? 昨日より膝がガシガシしない。三日目は12回。ふむ。四日目も12回。なんか、膝あたりにちょっとだけど充実感を感じる。たったこれだけのエクササイズで?と思ったが、かつての、ヨガ教室での会話を思い出した。「ヨガをやったら10日で(だったかな)体が変わるってテレビでやっていたけど、そんなもんで変わんないよね」「変わんないよ。ヨガ教室に週一でかよって、やっぱり、二、三年やったら少し良くなったって感じかなあ」なんて会話があったけど、私は横槍を入れた。「まったく体を動かしていない人だから、ほんのちょっとのヨガで効果が実感できるんだ。レベルが違うんだよ」って言ったが、みんなはあんまり納得していないみたいだったが、そして、私自身も実感としてではなく机上の論理的な発想で言っただけだったんだが、いま、ほんの一回二回。せいぜい10回のレベルでも「体が変わる」ってことを実感している。ってことは、ほんとに「ヤバイ」レベルの体になっていて、フレイル一直線どころか、「フレイル進行中」ってところなんだと思う。
(今日は鼻血出て、体調不良気味なので中止の日にしようかと思っていたが、うだうだこれを書いていたりしていたら、ちょっと体調戻り気味なので、回数を少なめにしてヤワにやることにしよう。せっかく3kg(父の遺品)にステップアップできていたんだから、もったいない)


フレイル:「虚弱」に近いが、どうも少し違うらしい。要支援・要介護の一歩手前のこと。体のこともだが、脳のことも含んだ概念らしい。

2021082827 急ブレーキにまつわるあれこれ


「あおり運転100件摘発」
厳罰化1年「急ブレーキ」24件

      ・・・なる記事が道新の夕刊(2021.08.26木曜日)に載っていた。「急ブレーキ」について違和感があったので、ちょっと調べた。

「急ブレーキ」が「あおり運転」に含まれるのがどうしてかがわからない。ある程度長い時間を車の前後を変えずに、車線変更なしで走っているとき、前方の車が急ブレーキをかけたとして、追突したら追突車が100%悪いんじゃあないかと私は思うが、ウィキペディアをみるとそうでもないらしい。道交法的には、「理由もなしに急ブレーキをかけたら急ブレーキをかけたものが悪い。追突したものももちろん悪い。小動物が現れたから急ブレーキをかけたと言うのは理由にならない」とのこと。まあ、鹿とか熊とかの大型動物が車道を横切ったような時に急ブレーキをかけるのは「理由」に相当するだろうが、犬猫程度なら轢き殺せと書いてあった。わたしだったら、たぶん、リスでもブレーキを強く踏む。リスだとわかった時点でブレーキを緩めるかもしれないけどね。しかし、犬猫ならきっちりブレーキを踏み切るだろう。なぜなら、ぶち当たったらこちらが被害を被る。バンパー破損だけで済むならぶちあたらるが、跳ねてフロントガラス直撃なら私が死ぬかもしれない。私の判断は間違いですか?

で、しばらく前後で走っていて前車が急ブレーキをかけたとして、理由はどうであれ、後車のわたしは前車に追突しないようにしなければならない。このとき、いきなり車線を変更して(ハンドルを切って)回避すると言うのは基本的にしない。わたしの後ろから車が来るかもしれないし、来ないとしても、いきなりのハンドル操作は自分がスピンする。だから、前車の急ブレーキには、わたしはハンドルを真っ直ぐにしたまま急ブレーキで対処する。つまり、それが可能な車間距離をとる。この車間距離は、路面状況・車の性能(特にタイヤの性能)・私の運転技術の優劣によって決まるものである。普通言われるのは車間距離で、それは、その時点での時速の数字の距離(たとえば、時速40kmなら40m)離れているべきだとわたしが運転免許を取得したころは言われていた。車道の中央線が何本で何メートルであるとか、色々あったが、どうも、一般道では中央線の書き方が色々あるらしく、あの言説は一体何だったんだろうと思ったことがある(高速道路では決まっていると習った)。どちらにしても、現時点の時速と車間距離を定量的に把握し続けることは難しい。よって、わたしは勝手に「車間時間」で前車との間隔をとっている。

2秒。

これがわたしの「車間時間」である。前車の最後尾がある印(たとえば、中央線の切れ目)を通過した時から後車の私の車の最前部がその印を通過するまでの時間である。ちなみに、時速36km(36km/h)なら秒速10m(10m/s)である。よって、2秒なら20m。教習所での講義より車間距離は短い。72km/hなら2秒で40m。「時速の数字の距離」よりかなり短い。わたしは車間距離不保持なのか? いやね、余裕のある運転で行きたい私は、最低でも3秒はあけたいものだと思っているんですけど、都市部で3秒だと割り込んでくる車が後を絶たず、非常に危険な交通状況になるので、不本意ながら2秒。じつは、2秒でも割り込んでくる車はかなりあるが、ま、これ以上は妥協できない。車間距離が足りなくなりすぎるから。

で、「車間時間2秒」で走っていて良くあるのが、片側二車線道路で前の信号機が赤、あるいはこれから赤になるゆえにとろとろ減速していると、右車線から「追い抜きざま」にこちらの左車線に入ってきて即ブレーキをかけるやつだ。赤信号だからブレーキなんだが、これって、完全な違反なんだと思うが、調子こいた運転するやつらはそのようにする。ひだり車線の私の前方の方が右車線の前方の方よりすいていたりすると、調子こいた運転手はそのようにする。まあ、ミラー見ていりゃ来るのはわかるから、そいつが車線変更できないような位置どりをしても良いのだが、そのためには赤信号により停止する位置までをかなりの速度を維持してブレーキを強めにかけるという風にしなければならず、バカバカしいので入るに任せているが、これって、ガキの行為だ。うちの息子が小学校4年生くらいの時、一家五人で歩いて家に帰るとき、さて、玄関の鍵を開けようかって時にひゅるっと一番前に滑り込み、一番最初に家に入るんだって位置取をしていた。ま、軽くゲンコツもんだがね。さすがに、長じて息子はガキを卒業して、常識ある若者になったが、車の運転免許を取得できる18歳以上の運転者には「ガキ」がかなりの割合で存在する。パトカーに対してもそういう運転するのかな?

で、信号機が赤っていうこういう場合なら予想がつくので後ろから抜いて行って車線変更して私の直前に来てブレーキを踏むってのは「馬鹿め」ですませられるが、同じように追い抜きざまに車線をこちらの車線に変更して私の前に来て私からは検知できない何らかの問題で前車が急ブレーキを踏むってことがないわけではない。この場合にわたしが追突してしまったときは、急ブレーキを踏んだ前車が100%悪いと思うのだが、いかがでしょうか。そういう場合だったら、「あおり運転としての急ブレーキ」という認定は良いと思う。だが、しかし、ある程度の時間を前車後車の関係を維持しつつ走っていて、前車が急ブレーキをかけた時に後車が追突したら、「100%後車が悪く、理由の如何を問わず、前車に衝突の責任は0%である」というのが私の見解だ。なぜなら、前車が急ブレーキをかけても回避できるだけの車間を維持するのは後車の義務だからだ。絶対にぶつからないように後車はしなければならず、それを怠っていたものにぶつかられた前車にいくばくかとはいえ責任を問うのは筋違いだと思うのだ。前車がどんなに悪意に満ちた急ブレーキをかけても後車は止まれなければならない。当たり前だと思うんだが。

前後である程度の時間走っている時に前車が急ブレーキをかけた時に(道路に巨大な穴が空いていることもあるらしい)、後車がぶつかる時、前車が意地悪でフェイントかけてから(たとえば、加速すると見せかけてから急ブレーキをかけるとか)したとして、それで追突してしまうってのを救済する(過失割合が有利になる)って、甘やかしすぎでない? だって、前車があれこれ策を弄したからぶつかってしまったって、相手が悪いって? バックして来たらその限りではないかもしれないが、止まっただけだよ。ぶつかるのはぶつかる方が全部悪い。なぜそう思うかといえば、追突衝撃において、車の重量などが同程度なら、ぶつかられた方が被害が大きく、ぶつかった方はさほどでもないという事情がある。だから、気安くぶつかる。ぶつかられた方が変なことをしたからぶつかってしまったと言い訳をする。それがそれなりに認められ、急ブレーキをかけた前車がそれなりに責任を取らされる。でもね、これが、ぶつかってしまったらぶつけた方の損害が圧倒的に大きかったら、後車は絶対にぶつからないようにするよね。気安くぶつかりはしない。わたしは二輪車に乗っていたので、その状況でした。前車がどんなに理不尽な行動をとったとしても、絶対に追突しない運転をしていた。車間距離(車間時間)をそれが可能なものとしてました。二輪車は前車に対してそのように行動する。車だって同様だと思うのですが、気安くぶつかっておいて「お前が悪い」はないでしょうというのが私の意見です。もちろん、理由の如何を問いません。加速すると見せかけたフェイントかけて急ブレーキを踏まれて追突するって、追突する方の技術無さすぎ。追突した者の免許剥奪要件だと思う。

で、「急ブレーキ」って何? ってことだが、ウィキペディアの定義が甘い。最近の車にはABS(アンチロックブレーキシステム)が付いていて、車輪の滑りを感知するとブレーキを自動で解除しグリップを回復し即ブレーキをかけ直しってことを素早く繰り返す。このABSが作動する程度のブレーキを急ブレーキというと書いてあった。で、わたしは初代セレナ、初代Fit、何代め?マーチのABSを体験したが、ABSが作動している状況でのブレーキは急ブレーキとは言い難いほど甘いブレーキだ。全然止まらない。いつだったか、かなり昔に「冬道講習」ってのを受講したことがある。その当時、わたしはABS搭載車に乗っておらず、ABS初体験だった。当時はABS搭載車は珍しいときで、体験試乗の時、初体験の私らに「ABSは結構止まらないよ」なんて講師の助言があった。実際、ガーってブレーキ踏んでみたけど、ABS非搭載車での感覚よりずっとずるずる前に行ってしまった。冬道講習の「箱庭走路」ではそれだけのことだったが、ABS搭載車に乗るようになって、急ブレーキがかけられないってのはかなりのプレッシャーですね。できればABS機能を削除したいものだと思っている。安全のためにね。

で、「急ブレーキ」ってのは車を運転するときに「最も重要」な技量だと思う。急ブレーキをどの程度扱えるかによってその場でその時走らせて良い最高速度が決まる。走らせる条件(路面状態・車の性能(特にタイヤ))において、急ブレーキでどこまでやれるか(扱うものの技量がここで加わる)によってその場での最大速度が決まる(制限速度とは無関係。制限速度内でも出せないほど早い速度となる場合もある。冬のアイスバーンはそれに当たる)。つまり、「いま走っている状況で、何かが起こって急ブレーキをかけなければならない時、急ブレーキをかけてこの問題を回避できるか?」 を常に意識して運転している。急ブレーキで回避できる速度・車間距離を算定して運転している。これって、車の運転の基本じゃあないですか? 少なくとも、バイクで事故らないためには必須項目だ。普通車でも同様だと思う。異論があるなら殴り合いしましょう。

で、「急ブレーキのあおり運転が100件中24件。うち8件が「いちじるしい危険」」って何? 右車線から追い抜きざまに(あるいは右車線前方から)いきなりこっち車線に入って来ての急ブレーキなら「急ブレーキ」案件ではないでしょう。「急な車線変更」事案はあげられていたけど、「追い抜きざまにこっち車線に入って来ての急ブレーキ」は項目になかった。「急ブレーキ」案件はどういう状況での「急ブレーキ」なんかねえ。ある程度の時間を前後で走っていてのいきなりの、急ブレーキをかけるべき理由のない「急ブレーキ」での「あおり運転」ってのは考えづらいんですけど。されても回避するのが当然なんですけど。

【補足】「急ブレーキ」は練習しないとできない。免許取るときの教習所では練習しない。ダメだと思う。大型二輪車の試験項目(何回受けても受からなかった)に「急制動(急ブレーキ。これは難なくクリヤできた)」がある。しかし、その課題はそれほど「急」ではない。大型二輪の練習していたときに教官からは「急制動」では少し緩めにやりなさいと助言された。緩めにやると安定して課題をクリヤできた。本気の急制動と比べると、私レベルで六割がたの制動であったことよ。「ぐぅーーぅう」って感じのヤワなブレーキでリミットの位置からかなり手前の余裕でクリヤ。本気のブレーキだと「ガツッ!ゥ、ガッガッガッガ」て感じ。前の車輪がブレーキで弾けるのよ。「ゥ」はわたしの技量の低さをあらわしている。この間の有り無しがプロとアマの差ね。

【車間距離不保持】片側二車線道路で左車線を走っている時に妙に車間距離を詰めてくる後ろのやつがいる。すいた右車線があるので追い越すならやつは右車線に出れば良い。しかし、詰めてくる。こっちは、大抵は制限速度プラス10くらいの摘発されないぎりぎり速度。意味わかんなくて、ちょっとブレーキランプを点灯させても(フットブレーキペダルをちょいと踏むだけで、ブレーキランプはついてもブレーキはかからないをやっても)くっついてくる。一般的に、男性がそのようにやるときは意図的だ。なんらかの悪意がある。ま、その際は殴り合いまで発展するかもしれない事案だ。わきに寄ってやり過ごそうとしても前に回って止まったりする。一方、女性がそのようにやるときは意図的でないことが多いように思える。ブレーキランプをちょこちょこ点燈させて注意を促しても、ちょっと離れてすぐにピタッとついて来たりする。女性の場合、ソーシャルディスタンスが男性よりも一般的に短い(だから、勘違いした男性が女性をものにして子供ができて人類が存続する)。車間距離的にはもう少し取らねばならない状況においても、かなりの割合で女性はくっついてくる。くっついた距離で十分離れた距離だと認識している風情だ。わかっていなさそうなので、速度を落とし気味にして追い抜かしてもらうための行動をとっても、追い抜いて先をゆくっていう意図はないので、ベタッとくっついて離れない。コンビニの駐車場に一旦入らねばならないのかあ? 急ブレーキを踏みたくなるのはこういうとき。うざい! 離れろよ! でも、急ブレーキを踏んだら確実に追突してくるので、すごくウザい。


2021092415ブレークスルー感染?

breakthroughって、「ガッチした」壁を「ブチ破って」突破するって言う意味だと思っている。まあ、英語力が低いわたしですので、間違っていたらそう言ってください。
鉄壁を強力爆弾で破壊して、その穴を突き進むって言う雰囲気ね。ということは、壁は超頑丈でなければならないし、突破するには最強の破壊工作をしなければならないという二つのことが条件であると思う。
で、「ブレークスルー感染」だが、この新型コロナウイルス感染に対するワクチン接種を規定の二回行い、かつ、規定の日数が経ち、かつ、抗体値がそれなりに高いことが想定される日数以内でも感染してしまったことに使う言葉だ。ワクチンによる高い抗体値が「壁」で「(デルタ株)新型コロナウイルス」が「爆弾」なんだろうが、いまふたつ腑に落ちない。
ワクチン接種を規定通りしたすべてのひとが高い抗体値を得るわけではない。ワクチンの有効性が95%とかと高いけど5%ほどのワクチンが無効なひとが存在するってワクチン製造会社は最初から言っている。ということは、壁は鉄壁ではなく、もともと多少穴が空いているのは想定済みだ。また、ウイルスの方も、それなりに突破力は高いらしいが、ワクチンが有効で高い抗体値を持つ人にどんどん感染していくっていう話でもはない。
ということは、壁には穴があり、爆弾は特に強力というわけではないが通り抜けることができるっていう話だ。つまり、「breakthrough」ってのは無理筋だと思う。
ある病院ではそこの医師看護師など全員がワクチン2回接種していたけど感染クラスターが起きたって報道があったりするけど、ワクチンを打っていたからと言って安心できないのは前々から言われていたことの通りで、そこの方々は大変でしょうが、想定内の事象だよね。
でも、「ブレークスルー感染」って言葉が医療現場で使われているようではある。まあ、それなりに強力と思われることをきちんとやっているにもかかわらず、ウイルスなどに感染してしまうっていうことに対しては「鉄壁を強力爆弾で突破された」って気分になるのもわからないでもないが、やっぱ、そもそもが穴のある壁に過ぎないもので防御しているんだから、そのつもりでことに当たらないといけないと思う。まあ、医療関係者はそのようにしているんでしょうが、報道各社はそうではなさそうだね。

2021092416大谷翔平はすでに結婚している

結婚したのがいつなのかは知らないのですが、かなり前から既婚者だと思う。お相手は、

「野球の女神」

生身の人間に太刀打ちできる相手ではない。しかも、相思相愛であることは見ての通りであり、異存の余地はない。

末長く、お幸せに。

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